奏でる想い  かなでるおもい












「ホント、いい映画でしたね〜」


にっこりと満足そうに微笑みながら、香穂子は紘人の顔を見上げる。


「ん〜まあまあだな」


「まあまあ、ですか?」


微妙な顔を見せる紘人に、香穂子は不満そうに口を尖らせる。


「だから、俺はラブストーリーなんてのは好きじゃないんだって」


「う〜…じゃあ…」


香穂子はぎゅっとしがみつくように腕を組み、もう一度笑って見せた。


「今度は、先生の好きな映画にしましょう?」


「お前さんにゃつまらんかもしれないぞ?」


「それでもいいです」


幸せそうに笑みを浮かべる香穂子の姿を、
紘人も穏やか笑みを浮かべながら眺めている。






コンミスの課題審査も終わり、後は本番に向けて練習を繰り返す日々。

休日にはこうして大切な人と過ごし、毎日がとても幸せで充実している。

それは不安になるほどに幸せな日々だった。






「お? 電話だ…」


そっと腕を放し、紘人が携帯電話のディスプレイを見た瞬間。


その瞳が一瞬だけ驚いたように見開かれ、紘人は苦笑を漏らした。


それがどこか困ったような顔で、香穂子はなんとなく…胸が苦しくなる。


「…すまん、ちょっといいか?」


「あ…はい」


少し香穂子から少し離れ、背を向ける。


ぼそぼそとこちらに聞こえないように話しているのが解る。


一人その姿から目を逸らして待っている香穂子の耳に聞こえるのは、
英語ではない…別の国の言葉。


なんとなく耳にしたことがある。






イタリア語だ。






イタリア語を知っているわけではない。

だが。

どくん…と、香穂子の胸が鼓動を打つ。






香穂子の脳裏に浮かんだのは、紘人の昔の想い人だった。






紘人がイタリアに留学中に出逢った女(ひと)。

ソプラノ歌手で、今…来日公演を行っているという。

彼女にはもう別れを告げた、と…紘人はそう言っていた。

香穂子は、もちろんその言葉を信じている。

自分を必要だといってくれた紘人のことを、信じている。

だが      






「いや〜すまんな」


電話を終え、戻ってきた紘人。


香穂子は不安に思う胸のうちを見せないように、にっこりと笑みを浮かべる。


「いいですよ。先生だって一応教師だし、忙しいですよね」


「…一応は余計だって」


苦笑を漏らしながら、紘人は香穂子と肩を並べる。


香穂子はもう一度、甘えるように腕を組んだ。


「…あったかい」


にっこりと、もう一度笑みを見せる。






電話の相手が誰なのか。

それは決して訊かない。

今の紘人の気持ちを信じているから。










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「すまん!」






誰もいない屋上で、二人きりで過ごす昼休み。


紘人が突然頭を下げた。






「な…なんですか?」


「…日曜、ダメになった」


「え…?」


弁当の包みを開いたまま、思わず手が止まる。






毎週のように、二人で過ごす週末。


今週末もいつものように二人で出かける約束をしていた。






「急な仕事が入っちまってさ」


「そう…ですか…」


毎日こうして逢っているとはいえ、
恋人のように長時間一緒に過ごせるのは週末くらいしかない。


その時間がなくなるのは、やはり寂しかった。


「本当にすまん…」


申し訳なさそうに溜め息をつく紘人。


紘人を困らせたいわけではなくて。


香穂子は微笑んでみせる。


「大丈夫ですよ。お仕事、なんだし…」


弁当箱を開け、卵焼きをぱくりと口に運んだ。


「ちゃんと埋め合わせはしてもらいますから」


悪戯気に微笑み、ぱくぱくとおかずを頬張る。


その姿を見た紘人は、
「やれやれ」と言いながらもどこか安堵したような笑みを浮かべた。




















「ごめんね、天羽さん。つき合わせちゃって…」


隣を歩く少女に、香穂子は苦笑を漏らす。






本当ならば紘人と過ごすはずだった日曜日。

香穂子は菜美と共にオペラの公演を観に来ていた。

紘人の恋人であったソプラノ歌手の、来日公演だ。

行くものか…と思っていたが、やはり気になって仕方がなかった。

紘人が好きになった女性が、どういう人なのか。

それを、確かめたかったのだ。

だが一人で行く勇気がなく、菜美に付き合ってもらった。






「全然オッケーだよ! 金やんの知り合いだっていう人も気になるしね」


にっこりと菜美が笑みを浮かべると、公演開始のブザーが鳴った。


辺りは暗くなり、公演が始まる。






彼女は、すごかった。


正直に言ってしまうとオペラなど全く解らない香穂子であったが、
素人でもわかるくらいに彼女の歌声は素晴らしいと感じられるものだった。


力強く…時には切なく、感情を歌い上げていく。


凛と強い…だが、透き通った歌声。






観なければよかった     と、香穂子はそう思ってしまった。


自分とこの女(ひと)ではあまりに違いすぎる。


紘人が香穂子を選んだ理由が、わからないというほどに。






「すごかったね〜!」


どこか鼻息荒く、菜美は語る。


「あのシーンとか好きだな。ほら……ん?」


ぴたりと動きが止まった菜美の視線を追うと、
見覚えのある人物が視界に入ってきた。


「え…!? あれ、金やんだよね!?」


「先、生…」


人込みにまぎれて解りにくくはあるけれど、確かにその姿は紘人だった。






『仕事』といっていたはずの紘人。

彼がここにいる理由は、なんなのか。

それは        






「ちょっと! 金やん、関係者しか入れないとこに入ってくよ!?」


その姿は、出演者の楽屋があるであろう場所へと消えて行った。


「やっぱり、彼女との噂…本当だったのかな?」


「でも、彼女に逢いに行ったとは限らないよ」


彼を信じていたくて。


香穂子は普段どおりの笑みを見せる。


「ま、待ってればわかるよね」


「え…待ち伏せする気?」


「そ! 日野ちゃんだって気になるでしょ?」


「う…」


気にならないといったら、嘘になる。


彼がここに来ていて、
関係者以外立ち入り禁止であるはずの場所に入っていったのも事実なのだ。


「ってことで決まりね!」










二人で関係者が出てくるであろう出入り口の付近で待ち伏せし、
30分ほどが経過した頃だった。


見知った姿が、暗闇に紛れて現れた。


「え…ちょっと…」


その姿を、菜美も驚いたように眺めていた。


紘人と、その隣に寄り添う女性。


それは先ほど観たばかりの、あの女(ひと)だった。


「金やん!?」


菜美が思わず声を張り上げる。


その声で紘人もこちらに気付き、驚いたようにこちらに視線を向けた。


「日野…!? 天羽も…お前たち、なんで…」


「金やん、その人…」


菜美が言葉を紡ぐ前に、
香穂子は思わず踝を返し、走り出した。


もうこれ以上、二人の姿を見たくはなくて。






信じていたかった。

だが、香穂子はどこかでわかっていた。

デート中にかかってきたあの電話も、彼女からなのだろう。

彼女はとても綺麗な女性で…紘人ともお似合いで、
それがとても悔しかった。

絶対に敵わない…と、そう思った。






どれくらい走った頃だろうか。






自分の名を叫ぶ声と同時にその腕を掴まれ、香穂子は振り返った。


走って追いかけてきたのであろう。


その息はとても乱れていて、額には汗が滲んでいる。


それは、とても逢いたくて…逢いたくなかった人。


「日野、彼女は…」


「私は…っ」


その言葉の先を聞きたくはなくて、遮る。


「先生よりずっと子供で…大人でもなくて…」


紘人がこちらをじっと見つめる。


「いつも先生に追いつこうと必死で…」


暗い中でも、視界が滲むのがわかる。


「そのままの私でいいって言ってくれた先生の言葉が…すごく嬉しかった…」


「日野…」


「…だから、先生のこと信じたいって…っ」


ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。


「先生が優しいのはわかってます…。
私に心配かけないようにって、嘘ついたのも…」


香穂子は鼻を啜り、その瞳を見上げた。


「でも、あの女(ひと)に逢ってたことより…嘘つかれた事の方がショックだった…っ」


その手を解き、香穂子は再び走り出した。






紘人の優しさはわかっていても、そんな優しさは欲しくない。

好きだからこそ悲しくて、胸が苦しい。










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音楽祭当日。


香穂子は控え室で一人、鏡を眺めていた。






あの日から、紘人と逢っていない。

いや、逢っていない…というよりは、紘人を避けていた。

以前のように接することは出来ないし、顔を見るのも辛かった。






だが       






「あんた宛ての花束、いっぱい来てるね〜」


鏡越しに映る菜美の姿を見て、香穂子は微笑んだ。


「うん。すごく嬉しい」


「こんなにあんたのこと見てる人がいるんだね」


その言葉を聴くと、思い出す。






ヴァイオリンを始めたばかりの春、初めて紘人と出逢った。

コンクールを終えて、秋にはコンサートがあって。

年を越して、コンミスに選ばれて。

思い返してみると、
その記憶は紘人と共に過ごした幸せな思い出で満ちていた。

傍で支え、元気付けてくれていたのはいつも紘人だった。

適当なことばかり言っているくせに、本当はとても優しくて…暖かい。






そんな紘人が好きすぎて、
こうやって顔を逢わないことさえもとても辛く…切ない。






「…ね、金やんに逢いに行かなくていいの?」


鏡越しにこちらを覗く、菜美の瞳。


全てを見透かされているようで、香穂子は無理に笑顔を作る。


「なんでそんなこと訊くの?」


「なんでって…流石のあたしも、そこまで鈍くないって!
あれから、金やんとはずっと気まずいままなんでしょ?」


「…気まずいっていうか…」


思わず、苦笑が洩れる。


「…元々、私じゃダメなんだよね。あんな女(ひと)に勝てるわけないっていうか…」


瞳に涙が滲む。






大人になろうと思った。

必死に背伸びをして、紘人に追いつきたかった。

だが、ようやく追いつけたと思っても…結局彼女には敵わない。

すぐにまた追い抜かれていく。

そうやって追いかけることに、疲れてしまった。






「…勝つ必要なんてないんじゃないかな」


香穂子の隣にある空いている椅子に腰掛け、菜美はにっこりと笑みを見せた。


「ずっと背伸びしてても疲れるだけだし、ありのままの日野ちゃんでいいんじゃない?」


「天羽さん…」


「ま、あたしにはよくわかんないんだけどさ。それに、元はといえば金やんが……ん?」


不意に目の前のものに気付き、天羽は立ち上がった。


「日野ちゃん、これ…」


菜美から手渡されたもの。


それは、一輪の薔薇と…メッセージカードだった






『頑張れ』






たった一言だけ書かれた言葉。

その字は、少しくせのある…でもとても暖かい文字。

大切なあの人の文字だった。






「…行ってきなよ。金やんのこと、まだ好きなんでしょ?」


「いいの! もう、いいの…」


泣きそうになるのを堪え、それを置く。


「日野ちゃん…」


本当は、指が震えるほどにすごく嬉しくてたまらない。


けれど。


「…わかった。ここに金やん連れて来る」


「え…!? ちょ…っ」


痺れを切らしたように菜美が部屋を出ようとすると、
ドアを開けた瞬間に驚いたような声と鈍い音が聞こえた。


「金やん!?」


鏡越しに見える、その姿。


不意に目が合い、香穂子は思わずそれを逸らす。


「あ〜…っとだな…」


「ちょうど良かった! 今から探しに行こうと思ってたんだよ!」


「は?」


ぐいぐいと紘人の背を押し、菜美は無理やり中へと連れ込む。


「お…おい、なんなんだ?」


「日野ちゃん、とにかくちゃんと話をしなよ。誰も通さないようにしとくからさ」


「天羽さ…」


香穂子の静止も紘人の苦情も聞かず、菜美はドアを閉めた。


菜美の気持ちはとても嬉しいが、だが…何を話していいのかわからない。


「あ〜…参ったな…」


頭をぽりぽりと掻き、紘人は溜め息をつく。






長い沈黙。






それは今の二人にはとても重くて、香穂子も言葉が出てこない。


それを破ったのは、紘人だった。


「…日野」


名前を呼ばれ、香穂子はびくりと身体を硬直させた。


ドクンドクンと、鼓動が早くなるのを感じる。


「…言い訳はしない。俺は嘘をついて、お前を傷つけた。
そのことは謝るよ。本当に…悪かった」


いつもよりずっと低い…真剣な声。


それでも直接見ることが出来なくて、香穂子は鏡越しに紘人を見つめる。


「学校で何回もお前の姿を見かけたよ。忙しそうに駆け回って…」


胸が、苦しくなる。


「その度に、このまま離れたほうがお前のためなんじゃないかって、そう…思った」


泣きそうになってしまう。


その続きを聞きたくなくて、香穂子は振り返った。


「私…っ」






「…でも、俺が…だめだった…」






嘲笑にも似た笑みを浮かべ、紘人はこちらを見つめる。


「お前がいてくれないと…だめなんだ」


口元は笑っているがその瞳がとても真剣で、思わず黙ってしまう。


「ホント、恥ずかしいよな〜。いい年したおっさんが…」


教師としても失格だ    と、紘人の唇から洩れる言葉。


頭の中がごちゃごちゃで、香穂子は言葉が出てこない。


「あ〜…すまんな。つまらん話をして…さ。 その…頑張れな?」


ずっと沈黙している香穂子の頭を優しく撫で、紘人は背を向けた。






行ってしまう。






こんな紘人は知らない。

でも嬉しくて、涙が溢れそうになる。

行って欲しくない。






香穂子は言葉を発するよりも先に、紘人の腕に抱きついた。


驚いた様子で、紘人が振り返る。


「日野…?」


「…私は…大人に、なれなくて…子供のままで…」


ぎゅっと、腕に力がこもる。


「あの女(ひと)みたいに綺麗でもないし…」


ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


「でも、私…先生が…っ」


そこまで口にした時、香穂子の身体は優しい温もりにふわりと包まれた。


その温もりがなんだか懐かしくて、その胸に顔を埋める。


「…お前は充分大人だよ。俺よりずっと…」


紘人の息が、ふわりと耳元にかかる。






俺にはお前が必要なんだ。






紘人はそっと耳元で囁くと、香穂子の頬にそっと手を当て、口付けた。


それはとても暖かくて、幸せで。


唇が離れる頃には、いつの間にか涙は止まっていた。


「…あ〜…やっちまった」


「いいじゃないですか、別に」


嬉しそうに笑顔を見せる香穂子。


その姿を見つめる紘人はどこか照れくさそうで、
胸がとても暖かくなる。


先ほどまでの気持ちが嘘のようだ。






コンコン






ドアをノックする音が聞こえ、二人は慌てて離れる。


ガチャリとドアを開ける音が聞こえると、菜美がひょっこりと顔を出した。


「どう? 話し合いは上手く……いったみだいだね?」


二人の顔を見合わせ、安堵したように笑みを見せる菜美。


なんだか急に恥ずかしくなって、香穂子はほんのりと頬を染める。


「…あのな、天羽…」


「心配しなくて大丈夫! あたし、口はホントに硬いからさ」


「あ〜…とにかく、そろそろ時間だな」


ごまかすように歩き出した紘人は、
ドアの前まで来るとぴたりと足を止め、振り返った。


「…日野、打ち上げの後…用事あるか?」


「え…? あ、特にはないですけど…?」」


「空けとけよ。 …じゃあ、がんばれや」


ひらひらと手を振り、出て行く紘人。


その姿を、頬を染める香穂子の隣で、菜美は呆然と見ていた。


「うわぁ…堂々と口説いていったよ、あいつ…」


「あ…あははは…」


「でもさ、よかったじゃん? 仲直りできて…さ」


「…うん」


ぼそりと耳元で呟かれ、香穂子はにっこりと笑みを見せた。










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夜の公園は静かで、海面にライトが反射し、輝いている。


香穂子は紘人の隣で、その光景を眺めていた。


「あ〜…寒く、ないか?」


「大丈夫です」


「そ…そうか」


なんだか歯切れの悪い言葉に、香穂子は首を傾げる。


「なんですか?」


「あ〜…いや、その…」


じっと、その瞳を見つめる。


「…目を瞑れ」


「はい?」


「いいから…ほれ」


仕方ないなぁ…と瞳を閉じると、手に温もりを感じた。


そっとその指に何かひやりとしたものを感じ、香穂子はついその瞳を開く。


「あ! 閉じてろって…!」


「…これ…」


何度も瞬きをしながら、その指を見つめる。






左手の薬指にはめられたリング。

そこには、小さな石が埋められている。






それはライトに反射してキラキラと輝きを放っていて、
香穂子は言葉を失い、驚いたように紘人を見つめている。


「あ〜…今日って、ホワイトデーだろ? その、バレンタインのお返しってやつだ」


「でも、これ…」


「…一応、ダイヤなんだぞ、それ…」


驚いて、嬉しすぎて、言葉が出てこない。


「…公務員の安月給じゃそんなもんしか買えなかったが、返品はなしだぞ?」


照れ隠しのように咳払いをし、じっと香穂子の瞳を見据える。


「…言ったろ? お前が必要だって…」


そっと、紘人の腕の中に包まれる。


その胸から伝わってくる鼓動は、とても早くて。


紘人も少し緊張しているのがわかる。


「ま…お前さんの隣は、俺が予約ってことで」


「…なんですか、それ」


クスクスと笑みを浮かべる香穂子に、紘人も微笑んだ。






この空間が、とても心地好い。

暖かい腕に包まれて、暖かい吐息を感じる。

それはとても幸せで     






「…ありがとう、先生」


その背に手を回し、見上げる。










返事の代わりにその唇に降ってきたのは、

甘い甘い大人の口付け。



















長々と本当に失礼いたしました!(スライディング土下座)
ちょっとありえないくらい長い…(笑)
連載じゃなく普通の創作の中で最長じゃないですかね?

いや〜アンコールをやったらホントに書きたくなりまして…!
やっぱり金やん萌えw
でも長すぎてびっくり!
あまりに長くて微妙なとこで終わらせてしまいました(苦笑)

一番書きたかったのは、人前で堂々と口説く金やんなんです!!(笑)



















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